ストーリー

24話

形のないものを

 大切な人といわれて、煮え切らないことに三人の顔が浮かんだ。物語の主人公だったら、多分一人を思い浮かべると思う。
 他の二人は何かあっても自力で対処できる可能性があるから、まっすぐに病院を目指して走り続ける。
 肺に入る空気が鋭さを持っているような錯覚を覚えた。うまく息ができない。足に重りがついてあぶられているみたいに熱をもっているけど、体の中心は冷たい気がした。心臓が活発に活動しているのがわかる。
 つまり、体は非常事態に直面する前に悲鳴をあげていた。
 止まれるものなら止まりたいけど、今止まったらもう走り出せない気がして、走り続ける。下を向いていたら足の痛みと呼吸のし辛さが主張を始めるから、人通りの少ない路地をまっすぐ、前を向いて走った。
 最悪の事態ってやつを想定しておくべきだけど、ライが何をしたかの想像がつかない。人さらいとか、暴力とか、どれも似合わない気がした。似合う似合わないは問題じゃないはずだけど、彼はもっとスマートな対応をする人に見えた。
 例えば、毒を飲ませるとか。事件が表沙汰になった時に自分に足がつかないようなやり方をとるタイプ。そんな印象だ。あまり知らない人を相手にこんなことを思う理由はなんだろうかと考えたけど、白衣を着ている以外に浮かばない。白衣を着た人は嘘つきだと思い込んでいるからだ。
 そもそも、リアは病院にいる。病院内のエンゲージは禁止だし、月が昇る前に患者は眠らなきゃいけない、もちろん夜の面会はNGだ。昨日の今日でライがリアに何かできるとは思えない。思えないけど、これはただの楽観視だ。もしアトレイが、本当にリアに頼まれごとをしてからおれ達の前に現れたのなら、昨日の時点でライとリアは接触してないかもしれないけど。でも、これもやっぱり楽観視だ。アトレイとすれ違いでリアに会っているのかもしれないし。
 リアに会ったといっていたアトレイは、嘘をついていた。リアが彼を使い走りにするはずがない。それでも彼がすぐにバレる嘘をついたということは、あの廃屋にある『何か』は関わっちゃいけないものってことだ。あそこに足を踏み入れられたら都合の悪い何かがある、だからもう入らないでほしい。あの嘘はそういう警告だと思う。
 でも、また入りに行くんだけどね。帰り道も覚えたし。
 足先に何かが引っかかって、一瞬足の痛みを感じなくなった。蹴るべき地面がない。踏み出した反対の足で体制を立て直そうとしたけど、そのままつんのめった。
 体を起こしながら身をひねって、足に引っかかったものを視界に入れる。
 缶だった。封は切られていて、中身は空。中身があったら食べたかったわけじゃないけど、昨日の朝から大したものを口に入れていないことを思い出す。
 家で一人留守番をすることになった彼は、ちゃんと食べているだろうか。いつも通りなら、やっぱり食べてないかもしれない。彼のことも、今まで通りとはいかないかもしれない。
 空腹と心配事と同時に、足が燃えているような錯覚を覚えた。立ち止まってしまった。一瞬でも過酷な労働から解放された足は疲労を訴えてくる。まだ止まれないんだ、リアが泣いてるかもしれないんだ。
 リアに会って元気じゃなかったらどうすればいい。怪我をしていたら、精神的に参っていたらどうしたらいい。今走って駆けつけて、おれはあの人に何をしてあげられるだろう。
 もしもに備えておくべきだけど、うまく頭が回らない。とにかく足を前に出すことに集中して走り出した。


 エレベーターの中で壁にもたれかかって、息を吐く。病院の中では走ってはいけません、というルールに従い、歩いてエレベーターに乗り込んだ。急いでいない時はなんてことはない距離でも、焦っているとそうじゃなかった。でも閉じている目の前の扉が開いたら、いつも通りだ。平静を装って病室に入ろう。
 扉がひとりでに開いた。
 病院で働く人たちが慌ただしく動き回っている側で、もう彼らとは出会うことのない人たちが談笑をしている。層のずれた人たちは、少しだけぶれて見えるからわかる。
 ストックみたいに連れ出せたら、喜ぶ人もいるんだろうな。
 もう会えないといわれた人に会えたら絶対に嬉しいはずだ。親族でも、本人でも、とても嬉しいことだと思う。それができるかもしれないのになにもしないおれは、やっぱりもう人間じゃない。人でなしだ。
 彼らのうちの一人とばっちり目が合ってしまったから、慌ててリアの部屋に向かった。
 頭の中に笑い声が響いた。
 そんなに滑稽なことをしたかな、X。
 返事はなかった。いつものことだ。
 部屋の前で立ち止まって、心臓に手を当てる。いつも通りに静かに脈を打っている。
 扉を叩く。どうぞと、いつもの調子で返事が返ってきて、冷たかった体の真ん中に正常に熱が通った気がした。
「来てくれたんだね、ありがとう」
 いつもの挨拶だ。いつものように返事をしようとして、いつもと違うことに気づいた。
 手土産が、ない。手ぶらできちゃった。
 それだけじゃない。そいえばいつの間にか父さんのノートがない。走ってる途中で落としたのかもしれない。落ちてる場所の検討がつかないから、ラズラとストックにもし何もなければ、裏路地に戻らなきゃならない。
 いや、違う。今はそんなことを考えてる場合じゃなかった。落としたノートのことは後だ。
「ごめん、ねえさん」
 謝ったら、なんでか惚けたように固まってしまった。彼女を覆っているハテナが渦を巻いている。
 はっきり罪状を明かせといわれている、気がする。
「この謝罪には二つの意味があって、一つは昨日来なかったこと、もう一つは、プレゼントを忘れてきたことで」
「もう、そんなことかあ」
 説明の途中で遮られた。続く言葉が出せなくなって、ただ彼女を見る。
「もう会わないっていわれるのかと思っちゃった」
「それはないだろ。決まりがわるいのはおれの方なのに」
 そんなことを考えるなんて、何か悲しいことがあったのかもしれない。
 部屋の隅に置いているテーブルと折りたたまれた椅子を引っ張ってくる。椅子を組み立てながら、なんともなさそうに尋ねた。
「なにかあったの?」
「ううん、なにも」
 なにもないのなら、そんな悲観的になることはないはずだ。いつも来てたのになにもいわずに来なくなったから、不安にさせたのかもしれない。それかライは本当に来ていて、何かいわれたのかもしれない。
「誰か、来たりしたかな」
「アトレイくんが一昨日来てくれたのと、アースくんが昨日来てくれたよ」
 が、来てくれた。
 当然のことながらおれの名前は、ない。本当におれは来ていないし、おれに聞かれて本人の名前をあげたらおかしいのもわかる。でもやっぱり、その言葉は鋭利な刃物みたいに、心臓に突き刺さった。それでもいつも通り、静かに脈を打ち続けているけど。
 変じゃないか。イメージだけで記憶がどうにかなるのなら、イメージで傷つけられたら痛みを負うものじゃないのか。
 ライの名前は出てないし、やっぱり悲しませたのはおれじゃないか。
「そっか。今度お礼をいわないとね」
 すまして、あくまで平然を装う。そういえばアトレイ、本当に来たんだ。一昨日ってことは、おれと別れたすぐ後か。
「アトレイが来るの久しぶりじゃないか。何かいってた?」
 リアが満足そうに微笑んだ。
「ルルにシール渡すなら俺にくれって、それから、ドーナツもらっちゃった」
「太っ腹だね」
 太っ腹どころじゃあない。彼がここに持って来たドーナツの数が異常に多かったことを、おれは知っている。
 一昨日やって来たアトレイ。持っていたのはドーナツ。
 いろんな種類のドーナツが散りばめられた箱を取り出して、おそらく彼はリアが一人しかいないことを失念していたに違いない。それか、選べるに越したことはないと思ったかもしれない。どのみち彼の財布はちっとも痛まなかったんだから。代わりに痛手を受けたのは、おれだ。
 クリアくんの特徴を伝える前に、何かおごれといったのは彼だ。何かといいながらドーナツを指定したのも。彼の注文にしては珍しいと思ったら、そういうことか。食べ物の好みが変わったのかと思っていた。
 今度あったらお礼をしよう。
「ねえさんは、もうおれにレアなシールはくれないの」
 もし彼女がうんと返事をすれば、アトレイの話は嘘じゃなかったことになる。
「ううん。ルルにだけあげるよ」
「ありがとう、ねえさん」
 感謝の気持ちを伝えたくって抱き寄せる。彼女を包んでいる心の悲鳴みたいなものが見えなくなった。見えなくても、ハテナは叶ったままだけど。
「最近人を探していてね、ねえさんと彼の力を借りれるなら、こんなにありがたいことはないよ」
「じゃあ、もうすぐ帰っちゃうの?」
 いわれて、罪悪感から離れる。おそろいがいいなんて気持ちを抱えている彼女に、今から告げなければならない言葉はあまりにも酷だ。
 昨日が例外になるわけじゃない。昨日みたいな不確定なことが、今後日常になるかもしれない。毎日来るからと断言はできなくなる。
 リアに寂しい思いをさせてしまう。
「ごめん。来られない日も増えるんだ」
 嘘みたいに青い目がおれを見ている。蜂蜜みたいな甘い黄色だった彼女の瞳は、今はおれとお揃いになってしまった。
「そうなんだ」
 あまりにも無機的に、なんともなさそうな態度をつくった彼女は嘘が苦手だ。嘘が苦手なのか、ハテナが見えているから心情を察しやすくなっているのかはわからないけど、彼女がなんともないふりをしていることはわかる。リアが嘘をつくと、なぜだか目眩がするから。はっきり存在するはずの境界線が、ぼやけて曖昧になる。
「でも、遠慮はしないでね。些細なことでも、なんでも」
 彼女は考える仕草をして見せた。何も語られない間が、恐ろしいことをいわれるんじゃないかという気にさせられる。遠慮するなといわれて遠慮を忘れる人間が、果たしてどれほどいるだろうか。少なくとも彼女はそういう大事な気持ちは忘れないタイプだと思う。
「じゃあ、今度来る時は時間があるときにしてほしいな」
 心臓が脈を打つ。そうだ。自分の用件だけ伝えて帰るのはリアに対してあまりにも、遠慮がなさすぎる。
「わかった、そうするよ。今日はごめんね」
 リアが目を伏せる。すぐに顔を上げて、にっこり笑った。続く言葉はわかっている。いつもと同じだ。
「うん。いつもごめんね」


「どこに行ってたんですか」
 施設の扉を開けると、ストックが怒りの形相で扉の前に立っていた。入り口から離れた机に座っていたジャスミンとラズラが立ち上がる。お帰りなさいといわれて、むずがゆさを感じた。
「お前がいいだしたんだろうが。ライと話をしてきたんだよ」
 レトがいい返す。ストックが何に怒っているかはさすがにわかるが、一方的に怒られることに納得できないのは俺も同じだ。
「ボクは、明日探してくれといったんです。成果を得るまで帰ってくるななんて、いってませんよ」
 俺たちはライと勝負するために森に行き、一晩明かした。ルルの家にいった時にジャスミンとストックが外で待っていたことから想像がつく。相当心配されたはずだ。
「緊急事態だった。屋敷の中で海を見たんだ」
 理由を説明しようとすると、ストックに白い目で見られた。昨日からいろんな人に、こんな視線を向けられている気がする。
「屋敷って、なんのことです」
 一応最後まできく気はあるらしい。
「ライに会って、勝負を持ちかけられたんだ。俺たちが勝ったらなんでも答えるというから、勝負に勝つために森の廃屋に入った。屋敷を散策していると部屋に大穴が開いて海の目の前に放り出された」
「それは、大変だったんですね」
 ストックが白々しいといわんばかりの目つきで俺を見ている。以前レトに同じようなことをいわれたと思い彼を見ると、ストックと同じような冷めた目が俺を捉えた。
「なんだ」
「いや、真実を話したのにあんな目で見られるなんて、と」
「それはそうだが、話だけをきいて信じる奴がいるとは到底思えん」
「ストックちゃんも、本当は信じてますよね」
 レトの発言に言葉を濁していたら、ジャスミンが助け舟を出してくれた。ストックが不思議そうな目をして彼女を見つめる。
「皆さんが戻られないので、心配していたんです。だから、ね」
 ストックがそっぽを向いた。あたりらしい。
 ジャスミンがストックの性格の悪い心情を察するようになっているとは思わなかった。
「それで、ライとの勝負には勝ったんですか」
「ああ。あいつは超人で間違いないようだ」
 ストックが道をあけてくれたので、室内に入って扉を閉める。ラズラとジャスミンが囲っていたテーブルの椅子に座り、ラズラが出してくれた茶をすすって一息つく。目の前に置いたノートの表紙をストックが見ている。
 ラズラが最後のコップに茶を注いで、首をかしげた。
「ルルは帰っちゃった?」
 そいえば、あいつがどこにもいない。
 そう気づいた途端、入り口の扉が開いた。
 血相を変えて息を切らしたそいつは、部屋の中を見回した後へなへなと座り込んだ。
「おかえりなさい、ルルくん」
「ジャスミン、ただいま」
 ラズラに差し出されたコップを礼をいいながら受け取り、その中の液体を一気に飲み干した。彼が飲み終わったことを確認して、レトが口を開く。
「お前は、ライに騙されたんだ」
「うん、そうだろうね」
 扉を開けた時とは対照的にすました様子で頷く。施設がなんともなっていないから気づいたのだろう。
「ただ、嘘を付かれた理由に心当たりがないんだ。昨日が初対面だと思うんだけど」
「お前、自分の噂のこと知らないのか」
 ルルが目を瞬かせる。考えるように視線を彷徨わせた。
「…病院のやつ?」
「そうだ。嘘つきを改心させるために騙そうとしたといっていた」
 ルルが首をひねる。ピンときていないと態度でいっている。それはまあ、そうだろう。
「まあ、それは済んだことだからいいんだ。それよりも」
 いいのか。
 ルルが立ち上がってラズラの手を取った。
「ラズラ。きみに頼みたいことがある」
「いいわよ」
 奴はまだ何も頼み事の内容を話していない。なのに即答されるとは思っていなかったようで、呆けた顔で瞬きをした。
「まだ、何もいってないけど」
「だから、どんな頼みごとでもいいわよ。あんたもよくいうじゃない」
 ルルが両の手で握ったラズラの手に、彼女の片手が重ねられた。
「きみが望むなら、ってね」
「…話が早くてありがたい、助かるよ」
 顔を真っ青にしてそれだけ絞り出したルルは、ラズラを椅子に座らせた。
「話があるんじゃなかったの」
「あとで大丈夫さ。今は情報共有中なんだろ」
「そうです。なんでも、海を見たとか」
 ストックが嫌味を込めた口調でいう。
「本当だ。嘘をつく理由がない」
 建物の中で海を見た、などどいって信じる奴がいるとは到底思えないが、俺たちが嘘をついて徳をするかどうかの視点を持ってほしい。証拠がないのだ。
「一晩帰ってこなかったのは、理由として十分でしょう。…といいたいところですが、海を見たかどうかはどうでもいいんです」
「なら、なぜ話を混ぜかえす」
 ストックが横目でジャスミンを見た。彼女の視線に気づいて、ジャスミンは首をかしげた。髪飾りが揺れる。
「確認に行けば問題がない、ということですよ。ライが超人だと確定したなら、勝負の舞台にその屋敷を選んだのは怪しすぎます。あのおじさんと関係があるのでは」
 その推測、どこかできいたきがするぞ。ルルを見ると、何やら考えている様子だった。ストックとは同意見なはずなのに。
「おじさんって誰だ」
 レトが問う。こいつ、忘れたのか。
「博士だよ。スターリム博士」
 ルルがすかさず答える。俺の目の前に置いてあるノートに気づいたらしく、小さく声をあげた。
「セルが拾ってくれたのか。ありがとう、なくしたと思ったよ」
「一度落としたのなら、なくしたってことですよ。それよりそれは何です」
 ストックに無言で差し出す。もしかしたら彼女にとっては見覚えがあるものかもしれない。
「読めませんよ」
 即答だった。目を凝らして読み取ろうという意志さえ感じさせないほど。隣でジャスミンが中身を見たそうに眺めている。
「どうぞ」
 視線に気づいたストックがジャスミンに手渡した。礼をいってノートのページをめくった彼女は、しばらく真面目な顔をしていたが、困ったように眉を下げる。
「私も読めません」
「だ、そうだが。なんて書いてある」
 ジャスミンからノートを受け取り、ルルに向かって放る。
「筆跡の練習で、ほとんど意味のある内容ではないんだ。文章はここだけ」
 俺には読めない文字をとんとんと叩いてから、読み上げる。

『また失敗した。
 途中までは成功だった。だが奴はいなくなってしまった。
 今度は何を失ったんだろう。
 あとは何が残っているんだろう。次出来るのはいつになるだろう。
 もう私から出来ることはない。待つだけだ。願いが叶うのを』

「なんですか、これは」
 ストックが顔をしかめた。明らかに苛立った口調だ。ジャスミンは読み上げられた言葉を小声で繰り返している。
 リアクションが対照的な二人にルルはこのノートが博士のものであること。字が博士のものを真似たようなものであること、博士は二人いたのではないかという憶測を伝えている。
 また失敗した。
 俺はこの言葉に聞き覚えがある。
「ジャスミン。確か前いってなかったか」
 彼女は俺の言葉の意味を察したらしい。
「『また失敗した』ですね」
「セル。あなたが行方不明になった時に、これについては話したことがあります」
「行方不明はいい過ぎだ」
 行方不明。つまりジャスミンに何もいわずに出かけたのは一昨日のことだ。
「ジャスミンとルルくんは『また失敗した』といわれたそうです。ただ」
 ストックが口を閉ざした。彼女にしては珍しいと思う。
 言葉を濁し、曖昧にして流すか悩んでいるようだった。
「そう、ボクは『失敗した』といわれました。つまり最初に造られたのはボクだと思います。その後の順番は」
「ライで、おれだね。そこから先はわからない」
「お前、ライに会ったことがあるかときいていたな。何か思い出したのか」
 レトがいう。ストックがルルを指差した。
「ルルくんの『会ったことあるか』は挨拶みたいなものですよ。ボクもいわれたし、ジャスミンにもいっていました」
「人を指で差すな」
 そして二人同時に首をひねる。ストックはレトの言葉をきいてはいないらしかった。いい返しそうなものを、何もいわなかったから。
「ボクと、ジャスミンと、ライ?」
「造られた奴は、人間なのか…」
 ストックの言葉はともかく、レトの呟きはジャスミンに聞かせたくなかった。アトレイと同じだ。超人と『普通の俺たち』の間に線引きをしたら。
 だから、とっさに目の前にあった机を思い切り叩いた。
 机はみしみしと軋んだ音を立てて、テーブルの上に置かれたコップは俺に向かってゆるゆる進みはじめる。ジャスミンとラズラがコップを掴み、茶がぶちまけられることはなかった。
 レトが叩いても見た目にはなんともなかったテーブルがこうなったということは、彼の修繕は無意味だったらしい。
 冷静に考えてから、事態の気まずさに気づいてしまった。家主のラズラの目の前でおもむろにテーブルを叩き、ゴミにしてしまった。
「あ…」
 謝ろうとして、うまく説明ができない。レトの言葉をきかせたくなかったとはいえれないし、室内である以上虫がいたともいい訳できない。
「セル、そんな顔しなくていいのよ。一昨日もいった通り、寿命なのよ」
 なぜ俺が机を叩いたのか知るよしもないラズラがフォローしてくれているが、そうじゃない。まさに『また失敗した』だ。
 ジャスミンに返事をしようとすれば突き放し、彼女を励まそうとするとかえって心配させる。フォローしようとすれば空回る。周囲には迷惑をかける。繰り返しだ。
「ラズラ、元はオレが原因だろう。代わりを調達してくる」
 レトが立ち上がる。一昨日のことをいっているのだろうが。
「いや、手を下したのは俺だ。俺が買い」
「買い直さなくてもいいよ。ラズラ、おれのテーブルと交換しよう」
 言葉を遮られた。お前の家は森の中だろうがといおうとしたが、違った。
「仮屋は全然使ってないから新品だよ」
 仮屋って、俺たちの部屋がある建物のことか。
「うん。じゃあ、ルルからもらってもいいかな。道中で頼みごとをきこうかしら」
「…おれときみでテーブルを往復させられる自信がないんだけど」
 ルルが大げさに両手を広げて肩をすくめた。罪を償うのは今しかない。
「オレが運ぶ」
「俺がいこう」
 レトと同時に挙手をして、顔を見合わせた。こいつをふるい落とす方法が思い浮かばない。
 にらみ合っていたら、ラズラが困ったように笑った。
「なら、二人にお願いするわ」


 テーブルは新品に差し代わり、夕方になった。児童が寝るまで話は中断することになった。

すすむ

2012.08.15-2018 Meijitsu Minori.